おもしろうて  やがてかなしき  鵜舟かな     芭蕉

小瀬鵜飼一千有余年の歴史
 鵜飼という漁法は古く,589年の中国の随書や、奈良の正倉院にある日本最古の戸籍法に、すでに「鵜飼」の名が登場することなどから、この頃には既に鵜飼が行われていたと考えられています。美濃鵜飼は、当初は現在の岐阜市黒野付近で行われていたものが、1534年の郡上川(現長良川)の大洪水以降、川筋が変わり、これとともに現在の小瀬、長良に移動してきたものと言われています。

天下の名職、名産、名魚
 平安時代の、延喜11年には醍醐天皇より「天下の名職、名産、名魚なり」との賞賛を賜ったといわれています。それ以来、朝廷をはじめとする時の権力者の保護を受けることになりました。「鵜匠」の命名は織田信長によるものといわれ、また、徳川家康も苗字帯刀御免にするなど待遇を与えていました。そして明治23年には宮内庁の直轄となり現在も小瀬の鵜匠は宮内庁式部職の鵜匠として宮中の御用を続けるとともに、代々守り続けてきた古代ゆかしい漁法で、訪れる人の目を楽しませてくれます。期間は毎年5月11日から10月15日までの半年の間です。
海よりの使者「鵜」
 鵜飼の主役とも言える「鵜」、実は毎年10月中旬より千島海流から日本海流を鰯の群れと一緒に渡って来る海の鳥なのです。鵜は習性上、家畜化することができません。そのため冬に内海に入る鵜の中から若い鵜を持ち帰り、飛び去るのを防ぐ為、片翼の端窒2〜3枚残して切取った後、約3年間、一人前の「鵜」になるための厳しい訓練を受けます。


厳しくも暖かいまなざし
鵜は鵜匠の家の鳥屋で2羽ずつ、鳥屋篭に入れられて飼育され、毎日手縄で縛って川へ行きアユを捕る訓練をします。2週間程経ったころに、老鵜と共に浅瀬で放ちます。4〜5日の内には老鵜の真似をしてアユを捕る様になります。こうして秋から冬にかけて、鵜の健康と体力づくりに心掛けて訓練が行われるのです。そのときの鵜匠の目には、伝統を守り続ける厳しさと、鵜への愛情が満ち溢れています。


いよいよ鵜飼のクライマックス
 夕暮れが辺りを包み始める頃、いよいよドラマの幕が開きます。先ず鵜匠は注意深く鵜のコンディションをチェックします。又、鵜匠の他に、中乗・中鵜使・艫乗りと呼ばれる人がいて、それぞれが船や道具の準備をします。やがて上流に遡り目的地に着くと、鵜匠は再度鵜の健康状態を確かめ、体力の強弱に応じて手縄の掛け具合を調節します。これを縄加減といい、アユ捕りの重要なポイントです。篝火の灯りだけに照らされるなか鵜匠の「ホウホウ」という掛声に励まされながら12羽の鵜は次々に水中に潜っては魚を捕らえ、水面に浮かんできます。鵜飼のクライマックスとも言える瞬間です。鵜飼は鵜の喉の太くなった程度を見て、船縁に引上げ右手で喉を押し、くちばしを開かせ、吐篭へ魚を吐かせます。若鮎なら3〜40尾も飲んでいます。後は、再度鵜の健康と餌加減を調べ、鵜を鳥屋篭に納め捕獲した魚は諸蓋という箱に入れてその日の迂回が終了します。

奥長良川県立自然公園
長良川の水源地、郡上郡高鷲村から本流に沿って関市まで、約80キロの地域が、公園の指定を受けています。全国でも希にみる山紫水明の地として有名ですが、その豊かな自然や、数々の旧跡を探勝すると共に、歴史的文化的な景観をいつまでも守る為に設定されたものです。

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